“愛するという事は、どんな事だか、私にはまだ、わからない。”
-太宰治『一問一答』より
生成AIが耳目を集めている。街を歩けばAIで作られたイラストが目につき、新聞などではAIを用いた仕事の効率化が云々といった見出しが踊る。私が生活上接する人々も、AIに悩みを相談する一方で、食い扶持を奪われるのではないかと恐々としたり、或いは新たな商機があるのではないかと躍起になっていたりする。
芸術の分野においてもAIは存在感を放っている。簡単な単語の指示を並べるだけで瞬時に生み出されるイラストや音楽。数年前は破綻が目立ったようだが、今日では人の手によるものと区別が難しいと聞く。
ただ、私はそうしたものには惹かれない。木端の表現者としても、一人の鑑賞者としても。
表現者として言えば、私の場合は音楽制作の過程自体に愉しみを見出している。幼児の足取りのような覚束ない手つきで楽器を弾き、曲を書き、その惨憺たる出来栄えに苦笑し、また楽器を手に取る。これを繰り返すうちに、背筋を伸ばして歩けるようになり、走れるようになり、少し跳んだりも出来るようになる。そうして視界が開けていき、自身の望む表現の理想系に、少しずつ近づいていく。同時に、視界が開けるにつれて理想系も形を変えていくから、そこに辿り着くことは生涯に渡ってない。永遠に完結しないこの試行錯誤の連続に、決して成就しない期待を裏切り続けることに、私は自身の人生を預けている。この昏い愉しみを、得体の知れない機械に明け渡そうとは思わない。それに、私の感情は私自身で語らなくてはならない。その機械は私ではない。
鑑賞者としてはどうか。私の場合、作品を通じて作者の存在に触れることが鑑賞の一要素となっているため、作品の背後に作り手のいないものには惹かれないように思う。
例えば、私がLorna Shoreを聴く時、あの強靭なボーカルや楽器隊の高度な演奏技術に対する敬意が自ずと湧いてくる。仮にWill Ramosが実在せず、あれが全て合成音声だったなどと言われれば、確実に興を削がれるだろう。作品それ自体の強度に加えて、それを支える作り手の技術、そこに至るまでの労苦に対する敬意が鑑賞体験に影響を与えているのである。
技術ばかりではない、作り手に対する人間的な親しみも重要な要素となる。鬱屈とした青春時代を送っていた私は、精神的な支えとして暗い歌詞の音楽を好んだ。メタルの水先案内人となったIn Flamesはそうした意味でも大きな存在で、当時十代だった私は「Take This Life」と悲痛に叫ぶ彼らの音楽に自分の心情を託していた。実際の彼らの人となりはまるで知らないが、音楽を通じた間接的な関わりの限りで、彼らは私の理解者となった。音楽が描いた彼らの偶像に、私は人間的な親しみを覚えていたのである。作品の背後に特定の作り手が見えない生成物に対しては、こうした興趣は生じない。
ところで、少し話を広げると、上述した感覚は、作品を通じてある人間の一側面を愛すること、ひいては人間という存在を限定的にでも愛することに繋がり得る。
仮に人間の全てに嫌気が差し、極度の厭人的な態度を取るのであれば、人間の生み出したものにも触れる事はできないだろう。恐らく、作り手の自我や欲望が鼻につき、全てが嫌悪感に収斂してしまうはずだ。しかし、そうした態度を取らずにいられる限り、人は芸術作品を通じて作り手と間接的な関わりを持ち、その一側面に敬意を持ち、また、親しみを感じることができる。眼に映るもの全てが憎くても、人間のある一点のみを肯定することができるのである。
これは作品を作って公開することにも通じる。人間を完全に否定するのであれば、自身の作品に対する他者の視線など求めない。どれだけ攻撃的な作品であっても、それが他人の目に触れるように公開された時には、誰かが何らかの関心を持ってくれることを、心のどこかで望んでいるはずだ。
翻って言えば、今後の芸術における厭人的な態度は、生成AIによる生成物のみを享受することになるのかもしれない。人格の排除された匿名の音楽だけを好み、作品を通じた人間との関わりさえも避けようとする姿勢。それは今よりずっと孤独に見える。
世の中がどう動いていくかは分からない。ただ、私自身は人間が作ったものを眺めては、人間というものに期待し、裏切られ続けていくと思う。そうした中で、不器用ながらに書き綴った音を披露して、誰かに期待され、そして誰かを裏切り続けていく。いつの日か自作の観客が私一人になったとしても、その営みは繰り返され、遂に理想に手が届かないまま、どこかで生命が終わる。創ることに取り憑かれた人間として、そんな生活をずるずると引き摺っていく。そんな予感がしている。
